リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
1892年、東京府牛込(現在の新宿)の骨董品屋の娘である青山ミツ(後に光子)は、オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使であるハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と東京で出会い、結婚しました。ミツが18歳のときでした。
1893年には長男ハンス(光太郎)が、1894年には次男リヒャルト(栄次郎)が生まれました。
この次男リヒャルトが、後に「パン・ヨーロッパ主義」を唱えるリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーです。
1896年、一家は夫の祖国であるオーストリア=ハンガリー帝国へ帰国、ボヘミア(現在のチェコ)のロンスペルク城に移り住み、更に5人の子供をもうけました。
広大な領地を持つクーデンホーフ=カレルギー伯爵家は、ハプスブルグ家の家臣でもあった名家でした。
東洋の島国から一人嫁いだ光子は、偏見と孤独の中、毅然として7人の子供たち(四男三女)を育て、高い教育を受けさせたといいます。
夫ハインリッヒは、18ヶ国語を理解し、哲学に深い知識を持つなどたいへん優秀な人物でした。また、常に光子を擁護し、大きな愛情を注いだといいます。光子も伯爵夫人にふさわしい知識と教養を得るため、自ら家庭教師を付けて必死に学びました。
ところが、1906年5月14日、突然の心臓発作で、最愛の夫ハインリッヒは急逝してしまいました。すると、夫の親族たちは、光子が財産を受け継ぐことに反対し、訴訟を起こしました。
しかし、夫が残した遺言書のおかげで、なんとか訴訟に勝つことができ、光子はクーデンホーフ=カレルギー伯爵家の当主となることができました。
最愛の夫を失った光子は、領地の経営と子供たちの教育に奔走しました。1908年には、子供たちの教育のためにハンガリーの領地を売って、ウィーンへ移住しました。
光子は、社交界へも復帰し、「黒い瞳の伯爵夫人」として活躍したといわれています。
ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリーと日本は敵国となってしまいました。
光子は日本人でありながらもオーストリア=ハンガリーのために活動しましたが、1918年に敗戦、オーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、財産を失ってしまいました。
次男リヒャルトは、大学生の時に年上の舞台女優イダ・ローラントと愛し合うようになりました。
しかし、光子はこれに大反対で、リヒャルトを勘当してしまいました。
1924年、光子はウィーン郊外に移り住みました。1925年、光子は脳溢血で右半身不随となり、唯一残った次女オルガの介護により、ウィーン郊外で晩年を過ごしました(オルガ以外の子供たちは、光子に反発し、光子の元を去ってしまいました)。
光子の楽しみは、日本人と会ったり、日本の書物を読むことであったといいます。
1941年8月27日、光子は67歳で生涯を閉じました。1896年に渡欧してから45年間、ついに日本に帰ることはありませんでした。
一方、母・光子に勘当されたリヒャルトは、ウィーン大学を卒業し、イダ・ローラントと正式に結婚しました。
そして1923年、欧州統合の思想を著した「パン・ヨーロッパ主義(汎ヨーロッパ主義)」を出版し、一大旋風を巻き起こしました(リヒャルト29歳)。
リヒャルトのパン・ヨーロッパ論は、世界を「イギリス」、「アメリカ」、「ソ連」、「アジア」、「ヨーロッパ」の5圏に分けるというものです。
ヨーロッパを1つに統合し、アメリカ合衆国のように、欧州合衆国を設立することで、ソ連の軍事的脅威やアメリカの経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらそうと提唱しました。
1926年には、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議を開催しました。リヒャルトによる欧州統合の思想は、多くの政治家や指導者たちに賛同され、「パン・ヨーロッパ運動」としてヨーロッパ各地に広まっていきました。
1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍のポーランド侵攻により、第二次世界大戦が勃発しました。ヒトラーの出現によって、パン・ヨーロッパ運動は頓挫してしまいました。
リヒャルトは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツから逃れて、最終的に米国へ亡命しました。1945年5月8日、第二次世界大戦が終結し、ナチス・ドイツは敗戦国となりました。
1946年、リヒャルトはヨーロッパに戻り、パン・ヨーロッパ運動を再開させました。パン・ヨーロッパ運動は、1958年1月のEEC(欧州経済共同体)設立をもたらしました。
やがて、EECは、ECSC(欧州石油鉄鋼共同体)、Euratom(欧州原子力共同体)とともに統合され、EC(欧州共同体)となります。さらに、1993年11月には、EC(欧州共同体)に外交、内務を加えたEU(欧州連合)が発足しました。
このことから、リヒャルトは、「EUの父」」とか、「欧州統合の父」と呼ばれています。
また、母・光子は、リヒャルトに高い教育と大きな影響を与えたことから、「EUの母」とか、「欧州統合の母」と呼ばれています。
【映画「カサブランカ」のモデル】
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツから逃れて、米国へ亡命しました。これをモデルにしたのが有名な映画「カサブランカ」だといわれています。
※映画「カサブランカ」…1942年に公開されたアメリカ映画。モロッコの都市カサブランカで酒場を経営するリック(ハンフリー・ボガート)が、再会した昔の恋人エルザ(イングリッド・バーグマン)と彼女の夫で反ナチス・ドイツ運動の首謀者ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)を米国へ亡命させるというお話です。
【友愛主義】
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、友愛主義者としても知られています。鳩山一郎元首相は、友愛思想に深い感銘を受け、日本でも提唱しました。鳩山由紀夫元首相が掲げた「友愛」は、祖父の影響を受けたものといわれています。
【香水「ミツコ」】
クーデンホーフ=カレルギー光子は、ゲラン社の香水「Mitsouko」のモデルという説もあります。しかし、ゲラン社は「小説の中の架空の登場人物がモデルである」として、これを否定しています。
【ドラマ・芝居など】
吉永小百合が、1973年にNHKのドキュメンタリードラマ「国境のない伝記」(全4回)、1987年に「ミツコ~二つの世紀末」(全5回)で、リポーターと光子役を務めました。
吉行和子が、2004年11月に「MITSUKO-ミツコ 世紀末の伯爵夫人-」で一人芝居を演じました。
大地真央が、2000年6月に『ミツコ』で主役のミツコ役を演じました。
【書籍】
1977年には、「はいからさんが通る」で知られる大和和紀によって、光子の生涯を描いた少女漫画「レディー・ミツコ」が講談社から出版されました。
1987年4月には、松本清張がクーデンホーフ光子のドキュメンタリー小説「暗い血の旋舞(せんぶ)」を日本放送出版協会から出版しました。
ほかにも、「クーデンホーフ光子の手記」をはじめ、関連書籍が多数出版されています。
みなさんも、何か見覚えがあるのではないでしょうか…?
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