分断された欧州(ぶんだんされたおうしゅう)
分断された欧州
世界各地で、古くから紛争や戦争が繰り返されてきました。なかでも、第一次世界大戦(World War I)、第二次世界大戦(World War II)は、欧州各国をはじめ、世界の多くの国々を巻き込んだ戦争となりました。
参考:ウィキペディア
アメリカ、イギリス、フランス、ロシアは両大戦の勝利国となりましたが、ドイツは2度とも敗戦してしまいました。
【ヤルタ会談】
第二次世界大戦が終結する7ヶ月ほど前の1945年2月4日~11日、クリミア半島のヤルタというところで、アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン書記長が首脳会談を開きました。ヤルタで行われたので、これをヤルタ会談といいます。
ヤルタ会談では、第二次世界大戦の勝利を確信した連合国側(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)によって、ドイツの分割統治、ポーランドの領土問題、ソ連の対日参戦、国際連合の設立など、戦争終結後の処理について話し合われました。ヤルタ会談は、東西冷戦のきっかけとなったと言われています。
第二次世界大戦中、連合国の首脳は数度にわたって会談を行いました。
1943年11月22日にアメリカ、イギリス、中華民国がエジプトのカイロで行った会談をカイロ会談、1943年11月28日~12月1日にアメリカ、イギリス、ソ連がイランのテヘランで行った会談をテヘラン会談といいます。
【東西冷戦:アメリカ VS ソ連】
第二次世界大戦が終結すると、世界構造は大きく、アメリカを中心とする「資本主義国陣営(西側)」と、ソ連を中心とする「共産主義国陣営(東側)」に二分され、アメリカとソ連の間に対立関係が生じました。
この対立は、軍事力を用いて攻撃しあう戦争ではありませんでしたが、世界を分裂させてしまいました。これを東西冷戦とか冷戦といいます。
軍事力を用いる戦争を「熱い戦争(熱戦)」というのに対して、軍事力を用いない対立関係を「冷たい戦争(冷戦)」といいます。
冷戦下では、東西両陣営間の交流は非常に制限されていました。両陣営の境界線は、ヨーロッパの中心に位置したため、イギリスのウィンストン・チャーチルは、この境界線を「鉄のカーテン」と表現しました。
チャーチルは、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説で、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある。」と述べました。
【分断されたドイツ:ベルリンの壁】
第二次世界大戦終結後、敗戦国であるドイツとドイツの首都ベルリンは4つに分割され、連合国のアメリカ・イギリス・フランス・ソ連がそれぞれの地域を占領しました。
その結果、アメリカ・イギリス・フランスが占領した西ドイツと西ベルリンは資本主義国、ソ連が占領した東ドイツと東ベルリンは社会主義国になりました。
しかし、ソ連が占領した東ドイツと東ベルリンでは、圧制に苦しむ国民が自由を求めて西ベルリンに亡命するようになりました。西ドイツと東ドイツの国境は封鎖されていましたが、西ベルリンと東ベルリンの移動は、当初は厳しく制限されていなかったのです。
貴重な労働力である国民がどんどん亡命してしまうため、1961年8月13日、東ドイツは西ベルリンを封鎖し、周囲をぐるりと囲むように壁を作りました。これが「ベルリンの壁」です。
1989年5月2日、東ドイツと同じ社会主義国のハンガリーが民主化運動の過程で、ハンガリーとオーストリア間の国境線にあった鉄条網を撤去しました。すると、東ドイツの人々は、ハンガリー・オーストリア経由で西ドイツに亡命するようになりました。
また東ドイツ国内でも自由を求めるデモが多発し、1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊しました。1990年、西ドイツと東ドイツは統合され、首都はベルリンになりました。
【東西冷戦の終結:ソ連の崩壊】
1985年3月、ソ連共産党書記長に指名されたミハイル・ゴルバチョフは、アメリカと協調していく「新思考外交」を打ち出したことから、東西冷戦は終結に向かいました。
1989年には、ソ連に支配されていた東ヨーロッパの国々が、ゴルバチョフの「新思考外交」によって社会主義を放棄し、民主化に向かいました。11月には、東ドイツでベルリンの壁が崩壊しました。
そして1989年12月2日~3日には、地中海のマルタ島というところで、アメリカ合衆国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領と、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長が首脳会談を開きました。マルタで行われたので、これをマルタ会談といいます。このマルタ会談において、ついに東西冷戦終結が宣言されました。
ゴルバチョフは、1990年3月15日にソビエト連邦の初代大統領になりました。1991年8月には、ゴルバチョフの改革に不満を持つヤナエフ副大統領と政府・党・軍がクーデターを起こし、ゴルバチョフを軟禁しましたが、ロシア大統領のエリツィンによってクーデターは解決し、ゴルバチョフも救出されました。
しかし、クーデターを起こしたのがゴルバチョフの側近たちであったことから、ゴルバチョフは国民の信頼を失い、1991年12月25日にソビエト連邦大統領の辞任を表明しました。1991年末にソ連は崩壊、15の共和国に分裂し、ソ連政府の権限などはロシアが受け継ぎました。
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